2026年6月4日
「マルチオミクス」という言葉は難解に聞こえるかもしれませんが、これには正当な理由があります。この野心的な分野には、多くの未知を解明する大きな可能性があります。ヒトゲノムプロジェクトが完了してから、まだ23年しか経っていません。この歴史的なマイルストーンは、ゲノム研究の新時代を切り拓き、既知の希少遺伝性疾患は、40種類程度から7,000種類にまで増えました。しかし同時に、私たちは未解明の領域がいかに広大であるかを知ることになりました。
がん、感染症、心血管疾患などの研究では、関連する遺伝子の解析から多くの重要な知見が得られています。しかし、それだけでは全体像を把握することはできません。どの遺伝子が発現しているのか、どのタンパク質が存在しているのるかを特定することは、診断や疾患モニタリング、創薬に役立ちます。しかし、生物学的に重要な「omes(オーム)」は他にも数多く存在します。マルチオミクステクノロジーは、生物学的理解の全体像をに欠けているギャップを埋めるのに役立ちます。現在、健康研究において科学者たちがますます統合を進めているさまざまな「オミクス(-omics)」について、複数回にわたって解説していきます。オームとは何でしょうか。オミクス研究から、人の健康や疾患についてどのようなことが分かるのでしょうか。また、研究機関やラボではどのようにその技術を導入しているのでしょうか。
まずは、オミクスの基本的な定義から見ていきましょう。
マルチオミクスとは?
マルチオミクスとは、複数の生物学的な階層、すなわち「オーム」を統合して研究するアプローチです。
最も広く知られているのがゲノミクスで、生物が持つ遺伝情報の完全なセットであるゲノムを包括的に研究する分野です。次世代シーケンスなどのテクノロジーにより、研究者はゲノムの構造や遺伝子の機能、塩基配列の変化、遺伝子の位置関係(遺伝子マッピング)を調べることができます。ゲノミクスと高度な解析テクノロジーの進歩により、DNAが健康と疾患に果たす役割を、かつてない規模、スピード、精度で解明できるようになりました。
過去20年にわたり、研究者はゲノミクスにとどまらず、ゲノムの分子や、それらの相互作用の解析へと研究領域を広げてきました。これにより、ゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクス、エピゲノミクスなどの新たな分野が生まれました。これらを総合的に捉える概念がマルチオミクスです。マルチオミクスは、単一のオームだけでは生命現象の全体像を十分に理解することはできないと考え、分子生物学をシステムレベルで理解しようとするアプローチです。
マルチオミクスからわかること
それぞれの「オーム」には独自の強みがありますが、単独では見えない情報もあります。マルチオミクスは、こうした相互に関連する分子レベルのプロセスを統合して解析することで、生物学的な仕組みや健康、疾患を引き起こすメカニズムについて、より包括的な理解を可能にします。ゲノミクス、プロテオミクス、エピゲノミクス、トランスクリプトミクスなどの情報を組み合わせることで、一貫性のある統合的な視点を得ることができます。
例えば、ゲノミクスは、ゲノムのコーディング領域とノンコーディング領域の両方を含む遺伝子を研究する上で非常に有用です。しかし、ヒトの約20,000個の遺伝子の配列が分かったとしても、その時点で実際にどの遺伝子が発現しているのかまでは明らかになりません。
さらに、遺伝子が転写される過程では、mRNAコーディング領域が異なる形でスプライシングされ(スプライスバリアント)、異なる機能を持つ複数のタンパク質を産生されます。場合によっては、その違いが生物学的に大きな意味を持つこともあります。このようなスプライスバリアントの存在は、ゲノミクスだけでは把握できません。一方で、トランスクリプトミクスを用いることで、どの転写産物が実際に生成されているのか、またどのようなスプライスバリアントが存在するのかを明らかにすることができます。
トランスクリプトミクスは、どの遺伝子が発現しているのか、またmRNAがどのようにスプライシングされるのかを明らかにします。空間トランスクリプトミクスは、組織内における遺伝子発現パターンを解明します。
しかし、mRNAが転写されたとしても、必ずしもタンパク質が産生されるとは限りません。細胞には、mRNA転写産物がその役割を果たせないようにするさまざまな制御機構が存在します。プロテオミクスは、どのタンパク質が合成されたのか、またそれらがどのような構造をとっているのかを明らかにします。
これは生体分子の研究において特に重要です。なぜなら、構造が機能を決定するからです。タンパク質がどのように折りたたまれているのかを知ることは、その構成要素であるアミノ酸がどのような配列になっているのかを知ることと同じくらい重要です。それぞれの構造には、そのタンパク質の機能に関する重要な情報が含まれています。
また、タンパク質は合成された後も、翻訳後修飾と呼ばれるプロセスが起こります。この過程では、細胞がさまざまな分子を付加し、その機能を強化または調節します。例えば、リン酸化はリン酸基を付加することで、タンパク質、特に酵素を活性化する重要な修飾です。こうした重要な情報はゲノミクスやトランスクリプトミクスからは得られませんが、プロテオミクスによって明らかにすることができます。
コンピューターのオペレーティングシステムと同様に、エピゲノムは遺伝子発現を精密に制御し、比較的静的なゲノムをより動的なものへと変化させます。さらに重要なのは、エピゲノムが環境からの刺激に応答することです。そのため、エピゲノミクスは、環境要因が遺伝子発現にどのような影響を与えるかを理解するための重要なデータを提供できます。
マルチオミクス研究では、研究者はさまざまなマルチモーダルアプローチを選択できます。バルクシーケンスでは、細胞集団や組織などのサンプルをまとめて解析し、その平均的な特性を測定します。これに対してシングルセルシーケンスは、個々の細胞レベルでオミクス解析を行う高度な手法であり、細胞集団内の不均一性を評価するのに適しています。さらに、空間シーケンスでは、組織構造を保持したままオミクス情報を取得・統合できます。これにより、細胞がどこでどのように機能しているのかを、組織内での位置情報というコンテキストとともに理解することが可能になります。
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マルチオミクスは、これらすべての生物学的階層が、単一の統合されたシステムとしてどのように連携しているのかを理解するのに役立ちます。この情報により、細胞がどのように意思決定を行うのか、また疾患によってその選択がどのように変化するのかを研究者が可視化できるようになります。
マルチオミクスに対するイルミナのアプローチ
イルミナは、ライブラリー調製ワークフロー、ハイスループットシーケンスプラットフォーム、解析ソリューション組み合わせることで、マルチオミクス研究を支援しています。私たちは、研究者が包括的な洞察を得られるエコシステムの提供を目指しています。アプリケーションに応じたライブラリー調製法により、ゲノム、トランスクリプトミクス(単一細胞および空間を含む)、ならびにエピゲノムアッセイが可能になります。これらのアッセイはIllumina NovaSeq Xシリーズなどのシステムでシーケンスできます。また、こうして得られたシーケンスベースのデータセットは、下流の解析フレームワークにおいて、プロテオミクスなどの補完的なデータモダリティと組み合わせて活用することができます。
イルミナのビジョンは、自社の中核となるシーケンスプラットフォーム上で幅広いオミクスモダリティを実現し、多様な機器や個別のモダリティごとのプラットフォームを導入することなく、研究者がこれらのアプローチを活用できるようにすることです。これにより、研究者は統合されたワークフローのメリットを享受し、サンプルからインサイトまでを効率的に結び付けることができます。
当社の最新のイノベーションの一つが、メチル化プロファイリングと高精度な遺伝子バリアントコールを同時に実現する5塩基ソリューションです。
Illumina SomaSeq™ Discovery(旧称Illumina Protein Prep)は、タンパク質解析をシーケンス互換のワークフローに組み込んでいます。このテクノロジーにより、研究者はタンパク質測定データをNGSリードアウトへ変換できます。Illumina SomaScan™ Discovery(旧称SomaLogic SomaScan® 11K Assay)は、タンパク質測定データをマイクロアレイリードアウトへ変換します。
StrataMap Spatial(旧称Illumina Spatial Solution)は、空間的洞察を明らかにするためのエンドツーエンドのシーケンスベース研究ソリューションです。空間トランスクリプトミクスは、すでに発生生物学、神経科学、腫瘍学の研究において重要なツールとなっています。StrataMap Spatialにより、研究者は組織構造のマッピングや組織機能の解明、腫瘍進行の追跡に加え、プレシジョンメディシンに向けた新たな創薬ターゲットの探索能力をさらに拡張することができます。
NovaSeqシステムをはじめとするイルミナのテクノロジーはマルチオミクスデータを生成しますが、イルミナはそのデータを迅速に解析し、解釈を効率化するためのツールも提供しています。その代表例がDRAGEN Secondary Analysisや Illumina Connected Multiomics(ICM)です。
ICMは、人工知能を活用して多様なオミクスデータセットを統合し、研究者がシグナルとノイズを識別できるよう支援します。このテクノロジーにより、研究者はゲノム、プロテオミクス、空間解析、シングルセル解析などのデータを組み合わせ、真に統合された生物学的インサイトを得ることができます。さらに、ICMはIllumina Correlation Engineラボで得られたデータを大規模かつ厳選されたデータベースと結び付け、生物学的な解釈に不可欠なコンテキストを提供します。
研究者によるマルチオミクスの活用
単一のオミクス分野と比較した場合、マルチオミクスの主な利点の一つは、相関関係の把握にとどまらず、因果関係の特定に役立つことです。これにより、生物学的メカニズムの理解、診断法の開発、潜在的な治療標的の発見、さらにはそれらの標的を改変する治療法の開発に至るまで、大きな変革をもたらす可能性があります。
·イルミナとBroad Clinical Labsは、マルチオミクスツールを活用して、疾患モデリングや創薬研究を加速することを目的とした、大規模な細胞アトラスの構築を進めています。
·初期段階の研究では、USCのがん生物学教授であるBodour Salhia博士(PhD)が、エピゲノミクス、トランスクリプトミクス、プロテオミクスを組み合わせることで、卵巣がん診断の精度向上を実証しました。
·Oxford大学とCambridge大学の研究者らは、CD4 T細胞を識別し、免疫系への理解を深めるためにマルチオミクスを活用しています。
·Emory Universityが率いるこのマルチオミクス研究では、全ゲノム関連解析とプロテオミクスを組み合わせることで、アルツハイマー病の病因を調査しています。
·オスロの研究者らは、メチル化バイオマーカーをリキッドバイオプシーに追加して精度を高めています。
プレシジョンメディシンやその他の応用に向けた展望と可能性
マルチオミクスは、創薬を大きく前進させる可能性を秘めています。ゲノム、トランスクリプトーム、プロテオーム、エピゲノムのそれぞれから得られる疾患シグネチャーを比較することで、研究者は生物学的パスウェイ全体を可視化し、特定の薬剤がそのパスウェイをどのように調節するかを調べることができます。
これにより、副作用を後期臨床試験の段階ではなく、創薬プロセスのより早い段階で明らかにできる可能性があるほか、薬剤の有効性向上にもつながります。また、なぜある患者は薬剤に反応し、別の患者は反応しないのかを解明する上でも役立ちます。
現在では、研究者はゲノムからプロテオーム、さらにはその先に至るまで、一連の細胞情報全体を追跡しながら組織の機能を調べることができます。これは、細胞生物学に関するまったく新しいユーザーマニュアルを手にしたようなものです。


