サラブレッドの親子判定法や遺伝子ドーピングの検出法の開発、競走能力に関わる遺伝子の解析までウマの遺伝子・ゲノムを幅広く研究
公益財団法人 競走馬理化学研究所 遺伝子分析部専門役の戸崎晃明先生は、日本で数少ないウマの遺伝子研究の第一人者です。サラブレッドの親子判定法をはじめ、遺伝子ドーピング検出法、ウマのリファレンスゲノム(参照ゲノム配列)の決定、競走能力に関わる遺伝子の探索など幅広く研究を進める戸崎先生に、ウマの遺伝子研究の意義や方法について伺いました。
Q. 最初に競走馬理化学研究所について教えてください。
A. 主に競走馬の薬物検査(ドーピング検査)、サラブレッドの親子判定・個体識別検査、また、遺伝子ドーピングの検出法などを研究しています。
競走馬理化学研究所は1965年に設立された公益財団法人で、主に競走馬の薬物検査、薬物分析法の開発研究、ウマの親子判定・個体識別の検査・研究などを行っています。私が所属する遺伝子分析部は、ウマの親子判定・個体識別や血統登録、遺伝子ドーピングなどに関する検査および研究を担当します。
Q. 競走馬の親子判定や血統登録はどのように行われていますか。
A. ウマの毛根からDNAを抽出し、マイクロサテライトDNAをマーカーとして調べます。
サラブレッド競馬では、競走馬はサラブレッドであることが絶対的な条件です。サラブレッドの定義は世界共通で、サラブレッドの両親は必ずサラブレッドであることが必要です。
年間10万頭程度のサラブレッドが世界で誕生していますが、競走馬として登録されるサラブレッドは、その血統を保証するためにDNA型検査によって父母子の親子関係が調べられます。ウマの毛根から抽出したDNAをPCR法で増幅し、キャピラリー電気泳動により型判定します。親子関係が確認されたサラブレッドには血統登録書が発行されスタッドブックに記載されます。これにより、競走馬としてのサラブレッドが誕生します。この過程を経ない個体は、生物学的にサラブレッドであっても競馬に参加することはできません。
また、サラブレッドの繁殖は、自然交配のみで人工授精は禁止されています。このような仕組みは、知っている限り競走馬のサラブレッドだけです。
血統登録は公正な競馬を守るために必要であり、競馬ファンに安心して競馬を楽しんでいただくための必須事項です。我々の研究や検査は、公正な競馬の運営に役だっています。
Q. 遺伝子ドーピングに関する研究はどの程度進んでいるのでしょうか。
A. サラブレッドの個体差によるDNA多型と人為的に改変された塩基置換を区別するために、全ゲノム(約30億塩基対)のデータベースを構築しています。
競馬産業における遺伝子ドーピングは、動物個体への遺伝子ドーピング物質の投与あるいはゲノム編集と、受精卵改変による遺伝子改変競走馬の作製の二つが想定されます。前者は、薬物などの低分子化合物の投与による従来からのドーピングと似た概念です。後者は、サラブレッド競馬の根幹を揺るがす絶対にあってはならない遺伝子ドーピングです。我々は、これらの遺伝子ドーピングに対する検査法の開発を進めています。
動物個体への遺伝子ドーピングは、生殖系列細胞が改変されなければ対象個体のみのドーピングですが、遺伝子改変競走馬が作製されると、その改変された遺伝情報は次世代に遺伝継承されてしまい、その後の血統すべてに影響を及ぼします。これは絶対に阻止しなければなりません。
遺伝子ドーピングの検出法を開発するうえで困難な点は、個々のサラブレッドの個体差を表すDNA多型と人為的に操作された塩基置換を区別することです。これに対処するため、現在、多頭数のサラブレッドを対象に全ゲノムのリシーケンスを行い、サラブレッドが本来持つべきDNA多型を見つけ出すためのデータベース(DB)を構築しています。このDB構築に、イルミナ社のNextSeq™500システムとiScan™システムを使用しています。全ゲノム解析とSNP解析の両方からアプローチしています。
ヒトでは世界アンチドーピング機構(World Anti-Doping Agency:WADA)が遺伝子ドーピングを禁止しており、2018年にはゲノム編集を用いた遺伝子ドーピングも禁止行為に加えました。サラブレッド競馬では国際競馬統括機関連盟(International Federation of Horseracing Authorities:IFHA)に2016年に遺伝子ドーピング規制小委員会が設置され、2017年に遺伝的治療、その不正利用である遺伝子ドーピングの規制が明文化されました。規制する以上は検査法の確立が必要になるため、その検査法開発の研究に取り組んでいます。IFHAの専門委員を務めながら、開発した遺伝子ドーピング検査法を各国に紹介しています。
サラブレッドへの遺伝子ドーピングは、まだ実施されていないと考えられますが、米国やアルゼンチンのポロ等の競技馬では体細胞クローン馬の生産がビジネス化されており1000万円程度で委託作製できます。体細胞クローン馬作製の技術があれば、CRISPRでのゲノム編集を組み合わせることで受精卵改変による遺伝子改変馬も作製可能であり、また、競走馬の価格が数億であることを考えれば1000万円も高すぎるとは言えない価格であることもあり、サラブレッドにおける遺伝子改変馬作製の懸念を消すことはできない状況にあります。このため、遺伝子ドーピング対策研究は、現在、競馬産業界にとって必須事項になっています。
Q. サラブレッドのリファレンスゲノム配列はどのように決められたのでしょうか。また、その後はどのようなゲノム研究が進んでいますか。
A. 2007年にリファレンスゲノム配列が決まった後、SNPチップの開発やNGSの発達を追い風に様々な遺伝学的研究が進んでいます。
2005年に「Horse Genome Project」として、参照ゲノム配列作製のプロジェクトが国際共同研究として開始されました。主には、米国農務省が資金を提供し、マサチューセッツ工科大学とハーバード大学の共同施設であるブロード研究所がリードし、日本からは日本中央競馬会(JRA)と競走馬理化学研究所の研究者(戸崎)が参加しました。
全ゲノム解読に使用された個体は、コーネル大学が提供したトワイライト(Twilight)という芦毛のサラブレッドです。2007年に参照ゲノム配列が決まり、現在は、31対の常染色体、X染色体、ミトコンドリアゲノムおよび座位未定配列群を含めて約27億塩基対が公開され、最新版はEquCab3.0になります。
概要ゲノム配列が公開された後、イルミナ社の協力のもとにSNPチップが開発され、またNGSの発達などもあり、10年ほどでウマの遺伝学的研究が世界中で爆発的に進んでいます。
私たちもすでにNextSeq 500システムによって、サラブレッド100頭以上の全ゲノムレベルのSNP・INDELデータベースを構築しています。これはウマの品種や個体差の研究に必須であり、また先に述べた遺伝子ドーピング対策にも利用されています。
これに加え、動物ゲノム機能注釈付け(Functional annotation of animal genomes:FAANG)という国際共同プロジェクトに参加しています。ヒトの複雑形質の90%ほどは、タンパク質の発現調節領域や非コード領域が関わっていることが知られていますが、ウマ、ウシ、ブタ、ニワトリなどの家畜ゲノムではこの領域がよくわかっていません。そこで、このプロジェクトでは、家畜のさまざまな臓器の組織からRNAを抽出し、RNA-seqなどでマッピングして、ヒトと比べていきます。エピジェネティックな情報も取得しています。この情報を精密育種、ゲノム予測、臨床診断に活かすのが目的です。
ほかにもターゲットリシーケンス、ウルトラディープシーケンスでのde novo変異の検出、WGSデータを利用した挿入配列の検出などの方法も研究中です。
Q. サラブレッドの競走能力は遺伝学的にわかっているのでしょうか。
A. ミオスタチン遺伝子の遺伝型の相違によってレースの距離適性の傾向がわかり、実際に遺伝学的検査として利用されています。
サラブレッドはヒトに比べて集団数が少なく、家系の幅もそれほど大きくないので、例えば身長や体重など多数の遺伝子が関わる量的形質でも、ヒトに比べると少数の遺伝子で支配されています。
イルミナ社のSNPチップで遺伝型を分析し、生涯獲得賞金額が多い群と少ない群の群間で、ゲノムワイド関連解析(GWAS)を行うことで、競走能力、特に距離適性に関わる遺伝子としてミオスタチン遺伝子を同定しました。ミオスタチン(MSTN)遺伝子は、筋肉量や筋繊維タイプ(速筋・遅筋)に影響する遺伝子で、ミオスタチン遺伝子の遺伝型の相違が距離適性に影響を及ぼします。
残念ながら、アイルランドの研究チームが、ほぼ同時に同じMSTN遺伝子のDNA多型を発見して特許を取ってしまいました。そのため、競走馬理化学研究所は、プラスビタール社とスピード遺伝子検査(図版1)のライセンス契約をし、2013年から馬主、生産者、調教師の方々の希望に応じ、遺伝学的検査を提供しています。
ほかに、サラブレッドの体高や体重と関わるLCORL遺伝子の遺伝学的検査も2016年から開始しました。GWASの結果から、サラブレッドの体重にはMSTNおよびLCORN遺伝子以外にもZFAT遺伝子なども関与することも明らかにしました。
また、京都大学やJRA日高育成牧場などと共同で、サラブレッドの性格に関わる遺伝子の探索も行っています。セロトニン受容体遺伝子の多型は、サラブレッドの扱いやすさと関係があります。このような研究は、サラブレッドが引退した後のセカンドキャリアの適性を見極める指標として使用することにも期待されています。
Q. 馬との関わりはどのように始まったのでしょうか。
A. 大学の馬術部に入ったのがきっかけで、馬に関係する研究にも興味をもちました。
昭和大学に入学後の最初の1年間は学部を問わず全寮制で、隣の部屋の友人(現昭和大学教授)に「土日に先輩がタダでご飯を食べさせてくれるから、馬を見に行こう」と誘われて、馬術部に入りました。入部後は「生き物だから、お前がえさをやらないと死んじゃうぞ」と先輩に言われ、朝昼夜に世話をしていました。馬術はメジャーなスポーツではなく大学から始める者が多いため選手にもなりやすく、また、馬に乗れるのはかっこいいなとも思いました。馬の背にまたがると視点が上がり、視野が広がったときの気持ちよさには感動します。就職は製薬会社なども考えましたが、大学の指導教授が馬の研究をしていたこともあり、この研究所のことを教えてくれて、やはり馬に関わりたいと思い就職しました。
寮生活時の「隣の部屋の友人」とは今でも交流があり、これも大学の全寮制システムと馬術部(馬)が取り持った縁かもしれません。
300年かけて走能力が改良されたサラブレッド、その約30億からなる塩基配列の意味を見つけ出していくのは楽しいですし、ロマンを感じます。困難な作業ですが、その一端を解明することで、さらなる競馬の発展、ファン層の拡大に繋がればよいと考えています。また、研究成果がウマの疾病予防やウェルフェアにも利用されることを期待したいですね。